つづいては、お土産を買った老順香の近くには、住民のみなさんが地域の歴史を壁画として描いた路地が三つほどあるらしいので、一つ一つ覗いてみることにしよう。
老順香を出て、元来た方向を背に新荘路の左サイドを少し進む。ごちゃごちゃして分かりづらいのでよく見ていると、左手にそれらしき路地発見。
中を覗くと「戯館巷」とある。
看板には、清代にはこの辺りは台湾北部の政治経済の中心地で、とても栄えていた。廟のお祭りも旺盛で、お祭りで神様に指人形劇「布袋劇」を奉納する劇団も多かった、的なことが書いてあった。
ということで、お寺のお祭りに奉納する指人形劇関連の絵が描かれている様子。
こっちは再現コーナー的な感じ。
路地から出てきて、そのまま通路の左側を注意しながら歩くと、また入り口発見。
「米市巷」と名付けられた路地の看板には、昔この辺りは新荘平原の米交易の中心地で、大陸の商船が慈祐宮前の埠頭で荷の積み降ろしをしていた、的な事が書いてあった。
なるほど。つうか、ここにそんな大きな埠頭があったのか。それはすごい。
と、ここで気になること発見。
さっきの老街入り口の地図、おかしいんじゃないだろうか。
7番がお菓子屋さんで、6番が戯館巷、いまここは戯館巷と同じ左側だから、4番よね?
4番と5番の位置が入違ってるんではないだろうか。
もとい。米市巷の壁画はこんな感じ。先ほどの指人形の絵よりポップでキュート系。
米の交易風景も描かれていた。清朝末期の感じかしら。
残るひとつは、今来た道をちょっと戻って、さっきの地図の5番を目指す。
今いる場所を背に、元来た道を戻りながら、左手を注意。(来る時でいうと右側)
ほどなく最後の路地、「挑水巷」発見。
看板には、新荘は民国23年、日本統治時代の1934年になってようやく水道が通り、水道の水を使えるようになったが、それ以前は大漢渓から引いた水くみ用の水路から生活用水を組む必要があり、水を売る業者が水を売ってた(後半省略)的な事が書いてあった。
ここの絵は、私の理解が足りないせいか、イマイチ良く分からなかった。
というか、ほかの路地より狭くて見づらいからかな。
というわけで、三つの路地巡りは終了。
さてと。また新荘路の古い建物を眺めながらの、散策を再開することにしよう。
なかなか、下の写真みたいな素敵建築がチラホラあって楽しいのだ。
新荘老街散歩⑧につづく~
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