「榕錦時光生活園區」は、もとは日本統治時代に「台北刑務所」の官舎があった場所だ。
日本統治時代の台北刑務所と現在のこの場所のつながりと歴史を知るなら、園区の東側にあるサービスセンター「榕錦時光服務中心」へ行ってみよう。
ここでは、古地図や古い航空写真、年表などの関連資料と園区改修工事の過程で残された遺物が展示してあり、非常に非常に興味深く歴史が学べる。
ここで歴史背景を知ってから園区内を散策すると、散策がより味わい深いものになる。
だから、ぜひ足を運んでみてほしい。
まずは台北刑務所の歴史から見てみよう。
前身となる「台北監獄署」が設立されたのが1896年。管轄は台湾総督府で、台北城南門の内側に作られたという。
のちに「台北県監獄署」「台北監獄」と名前が変わり、1904年に現在の場所(当時の古亭村、のちに福住町)に「台北監獄」が移転。1924年に正式に「台北刑務所」と改名された。
戦後は1945年に「台湾第一監獄」、1947年に「台湾台北監獄」に改名、1963年に監獄が桃園亀山に移転すると、宿舎跡や周辺に違法な改築や建築物の新築が横行し、人口が増え集落が出来上がり、「華光社区」と呼ばれるようになった。
1998年に監獄の塀が台北市の市定古跡に。
2000年代に入ると国有地再開発計画により華光社区の移転が計画される。
2012年に華光社区のの住民が転出、2013年に社区の取り壊しが完了、旧刑務所官舎が歴史建築に指定される。
2018年から歴史建築の修復復元工事が開始される。
2022年に「榕錦時光生活園區」としてオープン。
台北刑務所の範囲を当時の航空写真で見るとこんな感じ。
現在の地図と重ねると、当時の道路がほぼほぼ現在と重なるのに驚く。
(航空写真を撮った写真が斜めってて、上手に重ねられなくてちょっとずれてるけど、ほぼほぼ重なっている)
金山南路44巷の公園には、台北刑務所の塀が残っているのが確認できる。
その下の刑務所上半分は中華電信、下半分は中華郵政の敷地になっている。
中華郵政と金華街の間には、台北刑務所の塀の一部が残っており、いま榕錦時光生活園區になっているのは、金山南路二段と金華街の交差点から潮州街55巷手前と台北刑務所南側の塀の間の部分となる。
敷地の見取り図で見るとこんな感じだ。
中央見張所から放射状に舎房が配置されているのは、日本国内の同時代の刑務所と同じつくりだ。
展示されていた資料によると、建築設計を担当した建築家は、明治大正の超有名建築家の辰野金吾に師事した山下啓次郎。
彼は司法省の技師として、日本の五大監獄「千葉監獄」「長崎監獄」「金沢監獄」「鹿児島監獄」「奈良監獄」をはじめ、台湾三大監獄「台北監獄」「台中監獄」「台南監獄」などの監獄建築に携わった。
下の見取り図の写真は上段左から千葉、長崎、鹿児島、奈良、下段左から台北、台中、台南。
同じ建築理念にのっとって建てられているのがよくわかり、とても興味深い。
館内に置かれていた長方形の石は台北刑務所の塀の石組のもの。
この窓の外がちょうど塀になっていて、実際の様子と見比べられる。
ここの園区のすごいところは、修復工事の過程ででた石材やレンガなどが、敷地のあちこちにアートや装飾のアクセントとして使われているところだ。
歩いているときは、足元のレンガにも注目してみてほしい。
たとえばこれ。最初見た時、日本統治時代の台湾を代表する台湾レンガ株式会社の国産レンガ「TR(Taiwan Renga)」かと思ったが、よく見たら、デザインはよく似てるけど、真ん中のロゴが「北」になってるので、違うレンガだとわかった。
帰宅してから調べたら、「台北磚」と呼ばれる戦後の台湾で作られたレンガだった。
写真には撮れてないけど、園区内には上記の「TRレンガ」も、もちろんあった。
日本統治時代から戦後にかけての、建物の建築と改築の歴史がうっすらと浮かび上がってくるようだ。
古い建物や歴史が好きな人は、こういった角度からも園区が楽しめると思う。
特に興味がなくても、なんとなくでも予備知識があれば、もっと楽しいと思う。
ぜひぜひ、散策前に「榕錦時光服務中心」を訪ねてみてほしい。
超おすすめです!
榕錦時光生活園區(旧臺北刑務所官舍)
榕錦時光服務中心(インフォメーションセンター)
住所:台北市大安區金華街167號
時間:11:00~18:00、土日は19:00まで
0コメント